礼拝
森崇
常盤台バプテスト教会 2025.11.16 主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉒「神の赦しを与えられて」森崇牧師【ヨハネによる福音書 7章53~8章11節】(新共同訳 新約P.176~177)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 ローマの信徒への手紙 3章23~26節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生102番「罪にみてる世界」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 7章53~8章11節
特別賛美 ”主のみ手の中で” ありめせつこ
宣教 ヨハネ福音書講解㉒「神の赦しを与えられて」 森 崇牧師
祈祷
賛美 新生300番「罪ゆるされしこの身をば」
頌栄 新生668番「みさかえあれ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 聖書には二種類の赦しがあります。一つは犯罪を犯した者に与えられる「罪の赦し」と、その人そのものを在るがままで受け入れる「存在の赦し」です。救い主イエスの十字架により与えられる赦しは、私たちを全き神の子とする赦しです。
ヨハネ福音書8章の「姦淫の女とイエス」は古い重要な写本には記されておらず、そのため〔〕で括られて後代の加筆であることを示しています。しかしこの伝承は確かに主イエスの出来事であったことが伺えます。なぜこれが聖書として初期の段階から記されなかったのでしょうか。それは主イエスがこの時なされた赦しがあまりにも行き過ぎた赦しであったからです。「人は誰でも罪びとであるから、誰も人の罪を裁くことは出来ない」とは当時も今も社会規範から照らせば受け入れられません。しかし不都合な真実としてヨハネ福音書に入れられたこの伝承はイエスによる圧倒的な赦しを私たちに知らせます。
姦淫の女はファリサイ派や律法学者たちによってイエスを貶めるために用いられた卑賤のいのちでした。姦淫の罪は男と女が裁かれなければいけませんが(申22:22~)、現場で捉えられたのは女だけです。女性蔑視の目の中、イエスに集まる群衆の真ん中に立たせて彼らは言います。「こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」(5)厳しい視線と投げかけが続く中、イエスはかがみこみ、指で地面に何か書いておられました。「書く」とは「公に記録する」の意味です。意味のない落書きをされて時間をつぶされたのではありません。この出来事を公に記すか、あるいは自分がこの裁きの席でなされる判決を書いておられたのかもしれません。しかし大切な事はかがみこむ、つまり彼らの質問には答えられず、沈黙を貫かれたということです。殺されようとする女性の命に沈黙して寄り添う主イエスの姿です。彼らがしつこく問い続けるのに対して、身を起こし、立ち上がって告げます。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」そしてまた身をかがめて地面に書き続けられます。誰もがその場に立ちえない、つまり誰もこの女を罪ありと裁けずに立ち去らせたイエスは再び身を起こして言われます。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」女は答えます。「主よ、誰も」イエスはこの女を赦し、告げます。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはいけない」
この伝承は、私たちに将来の赦しを告げるものです。すなわち、生涯の終わりに、神の前に裁きの座に立つときが来ます。その時、主イエスは私たちの傍らに立って「私はあなたを罰しない。あなたは赦されている」との宣言を聞くことが出来ます。主イエスは私たちを罰するために来られるのではなく、もう罪を犯さない、聖なる生活へと招くために今、来ておられます。今という時、罪から離れて人生を新しく生きる可能性を開かれています。
さて、8章の最期では「石を投げることを辞めさせたイエス」は石を投げられます(59)。この出来事は十字架との対比です。罪ありとされた姦淫の女は赦されますが、罪なき神の子として来られたイエスは十字架にて殺されます。鞭うたれ、唾をかけられ、侮辱され、罵られて弱るイエスです。しかしその十字架において主は言われます。「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)
「汝は罪なきものなり」と言われる主イエスは私たちの罪を十字架にて負って下さるお方です。そのために主はいのちを十字架にてささげられました。その主のいのちによって私たちは今、赦しの中を歩まされています。あの時、姦淫の女が石を持って殺されようとしていたその時、女が見ていたかもしれないイエスの地面に書かれた言葉は何だったでしょうか。私たちはこう信じます。「この人を殺すな。わたしがこの人の代わりに死ぬからである」